「楽園の鳥」+「夢見る水の王国」メモ

松永洋介が作成した、寮美千子の長編小説『楽園の鳥 ―カルカッタ幻想曲―』(講談社2004)と、その作中ファンタジー『夢見る水の王国』(上下、角川書店2009)についてのメモ。作中のガンジス神話は『天からおりてきた河 インド・ガンジス神話』として絵本化(山田博之・画、長崎出版2013)。

泉鏡花文学賞 受賞スピーチ原稿/鏡花コメント/「ぼくだあれ」

  • 第33回泉鏡花文学賞 受賞スピーチ原稿@金沢市文化ホール 2005年11月22日(Review Lunatique)
    ……すばらしくよくできたスピーチ原稿で、授賞式でのパフォーマンスは多くの人に感銘を与えたようです。スライドも好評でした。
  • スピーチの内容で特に面白かったのは、泉鏡花のコメントの引用。
    自分の作りたい物を作るといふよりか、人の作りたい物を作るといふことになつて主客轉倒、そんな樂しい、嬉しい、懷しいは力も品もないものだ。
    作家が自分の心に従って芸術に奉仕する“作品”でなく、業務用の“商品”を作る態度を「主客転倒」と言い切っています。大衆作家なのに。原文だとけっこう読みにくい鏡花の作品が今も読まれ、舞台や映画の原作としても根強い人気を得ているのは、やはり作品に、代え難い魅力があるからだろう。その力は、こういう鏡花の信念の反映でもあるのだろう。
  • しかし、いちばん衝撃を受けたのはここ。
    賢治の童話は「子どものため」というより、わたしにとって、複雑な世界を因数分解して得られた、単純で美しい数式のように思われました。わたしもこのようなものを書きたいと、不遜にも思ったのです。

    最初に書いたのは「ぼくだあれ」という作品でした。暑さのあまり記憶喪失になってしまった迷子の子象の物語です。ヘビがきて子象の長い鼻を見て「きみはヘビだよ」といい、チョウチョがきてぱたぱたする耳を見て「あなたはチョウチョよ」といいます。いろいろな生き物がきて、みな勝手なことをいっていきます。子象はそのたびに「そうかもしれない」と思いながらも、なぜかひどく哀しくなるのでした。やがて日が暮れ、草原の空が赤く染まった頃、地平線の彼方から、何かが砂煙を上げて駈けてきました。チョウチョのようにバタバタ翻る耳、高く掲げられた長い鼻。子象は、そのとたん、自分が誰だったかを思い出し、「おかあさーん」と叫んで立ちあがると、一目散に駈けていきました、というお話です。
    「あなたは○○だ」と誤った断定をする人々には、無知や観察不足はあるが、悪意はない。でも、言われた側が「なぜかひどく哀しくなる」ことへの理解もない。親切心から出た言葉でも、人の心を傷つけることはあるのだ。人はどんなに無知でも日常を送れるし、自己の判断に対する懐疑心を持たない人も多い。
    精密な観察と分析に基づく鋭い描写がここにある。まさに因数分解だ。こういう童話なら、ぜひ小さいときに読んでおきたいものだ。はじめてこういう世間に触れてびっくりしても、「あれか」と思えばショックは小さく済むだろうから。
  • 「ぼくだあれ」の子象には帰属する場所があり、そこへ帰ることができた。しかし『星兎』のうさぎには、不条理でアナーキーな現実が立ちはだかる*1。そして『ノスタルギガンテス』の主人公は、非現実というわけでもない日常世界にすべてを奪われていく。
    楽園の鳥』については、今年の二月の「覚書:すべては風と共に去りぬ(だが土地は残っている)」でこう書いた。
    もしスカーレット・オハラが、絶対的な帰属の地“タラ”を持たなかったら、物語はどう終るのか? その問に対する回答が『楽園の鳥』である。
    恐るべきことに「ぼくだあれ」からテーマは一貫しているのだった。それでもまったく金太郎飴に見えないところが凄い。
    これまで寮美千子作品のテーマもしくはバックグラウンドとなってきた地球生態学天文学、先住民文化は、人間の帰属の地を指し示すものだった。
    楽園の鳥』では、自らの帰属の地へと辿りつける確証のないわれわれの、現実‐日常‐世界とのfightとstruggleが徹底的に描かれている。

*1:うさぎが直面する「現実」は、われわれの日常の床板を剥がせばすぐに見える本物の現実だ。