「楽園の鳥」+「夢見る水の王国」メモ

松永洋介が作成した、寮美千子の長編小説『楽園の鳥 ―カルカッタ幻想曲―』(講談社2004)と、その作中ファンタジー『夢見る水の王国』(上下、角川書店2009)についてのメモ。作中のガンジス神話は『天からおりてきた河 インド・ガンジス神話』として絵本化(山田博之・画、長崎出版2013)。

公明新聞に書評掲載

  • 公明新聞に書評が出ました。連載紙だから、ほめるのは当然ではある。それにしても大絶賛だ。
     大著である。四百字原稿用紙にして1200枚といえば、平均的な小説の3冊分の量になる。だけど、それが苦にならない。それどころか、ひさしぶりに、思わず時間を忘れてページをめくる喜びを味わうことができる。これぞまさしく、小説を読む醍醐味。
     舞台はインドのカルカッタ。平均的日本人からすれば、一生訪れることはない、「異郷」の中の「異郷」である。暑さ、貧しさなどなど、プラスとは言えないイメージだけが膨らむ場所。怪しげな白人との恋とその破綻のために、この「異郷」の街でしばしの時を遇ごすことになってしまった30代の日本女性。冷静に考えれぱ、不良外国人にいいようにかもられているとしか言いようがないのだが、迷いながらも一途に、恋に生きてしまう女心。その描写こそが、この小説の最大の魅力だ。
     恋、というよりも執着と言った方がいいかもしれない。人が他者に対して抱く想いは、理性を超えた、不可思議なものだ。生活能力もなく、将来への展望もなく、さらには意味もなく暴力をふるう相手に執着しつづける愚かさには呆れるしかない。しかし、その愚かさ、危うさこそが、読者をひきつけ、この大著のページを繰らせ続けてしまうのである。
     世の中が、正しい理性と間違いのない計算だけで動くものならば、恋もなく、そして恋を描く小説も存在しないだろう。私たちが、恋を描く小説に惹きつけられ、心ゆさぶられ、夜のふけるのも忘れてページを繰り続けるのは、そもそも人が作る世の中が、矛盾と非合理な感情によって回っているからなのだろう。
     出会う誰もが、「私以外は誰も信用できない」と断言するカルカッタという街。この街のことを詳しく知ったのも、この小説のおかげだ。さまざまな魅力を持つ、豊かな小説世界へようこそ。
    椎名誠二「矛盾と非合理の感情の深淵を覗く思いが」(『楽園の鳥カルカッタ幻想曲―』書評、公明新聞、2004年11月29日)転載許可済
    アマゾンの個別商品ページにもエディターレビューとして転載されています。