覚書:すべては風と共に去りぬ(だが土地は残っている)
映画『風と共に去りぬ』の主人公スカーレット・オハラは、『楽園の鳥』の主人公アモウ・ミチカに負けず劣らずの“行動力のある莫迦”である。目の前にある賢明な道をどうしても選択しない主人公にイライラさせられるのは、共演する登場人物のみならず、見ているほうもハラハラしっぱなし。心の中で「ええかげんにせえよ!」とツッコミを入れつづける、というのが、これらの作品の醍醐味でもある。
主人公の性格付けはたいへん似通っているが、両者にはまったく違う点があって、それは心に“タラ”を持っているかどうかである。
映画『風と共に去りぬ』は、スカーレット・オハラが、ついにレット・バトラーにまで愛想を尽かされ捨てられた絶望の淵で終る。しかしそこで、主人公には心の声が聞こえる。(ユーズ・ザ・フォース、ルーク!)「そうだ! 私にはタラがある! タラの赤い大地が!」明日は明日の風が吹く、♪見ろよ燃えている茜雲*1、とばかりに「タラのテーマ」が流れ、オチも何もなくジ・エンド。それで映画としてOK、ということになっている。しかし、『楽園の鳥』の主人公には“タラ”はない。したがって、絶望の淵で、タラのテーマも流れない。
もしスカーレット・オハラが、絶対的な帰属の地“タラ”を持たなかったら、物語はどう終るのか? その問に対する回答が『楽園の鳥』である。
『楽園の鳥』は、帰属すべき地を持たないスカーレット・オハラの物語である。そして多くの登場人物も、主人公と同じように、降り立つべき安住の地を持たない「楽園の鳥」たちだ。